脳内本棚

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互いに歩み寄るってどうすんだよぉ、て話

先日、一緒に活動している仲間との「価値観の違い」というものにぶつかった。

 

「価値観の不一致」でなにかを共にできなくなる話はよくあるが、

この明確な感覚は私にとっては初めてのものだった。

 

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彼女と何が相容れなかったかというと、

コミュニケーションの取り方である。

 

 

お互いに性格の不一致や物事の優先順位が違ったために(組織内でのポジション・役割も違う)、小さな不満は溜まっていた。

ただ、相手の私への不満の方が常に大きかったようで、

ため込んでからぶつけられる、という流れは今回で2回目だった。

 

1回目の時、

向こうは

他人に指摘をすること、それによって自分に跳ね返りがあることを恐れつつも、勇気を出して私に苦言を呈してくれた。

そして、ため込みすぎず自分で発信することをより重要視すべきだと反省し、

私には、自分で人に不快感を与えるリスクに気づく努力をするよう求めた。

 

私からは、

もっと他人の感情に敏感になるべきだったと反省し、

相手を傷つけることが怖いあまりに(裏を返せば保身)発信をしないのは

むしろため込んでからぶつけることで相手の傷を深くするリスクを孕むものだと言った。

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立場上の問題を私から見ると、

相手は私がリーダーを務めるチームのメンバーだった。

 

……リーダーの在り方とは難しい。

その当時私は、少なくともメンバーよりは

不満をぶつけるよりはこらえ、不満を吸収するべき存在だと考えていた。

しかし向こうからすればこれは必要以上の線引きで、

双方向でのコミュニケーションを妨げる考え方であったかもしれないし、私が相手に不満を伝えずにいるのも一種の保身ではある。間違いなく。

 

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そして数か月後、また同じことが起こった。

 

構図も同じだった。

さらに、相手はより攻撃的になっていた。

 

結局のところ、お互いにあった感情は

「相手は本当にこちらに合わせる努力をしたのか。

私のことをちっとも分かっていない」

であったと思う。

 

私なりには、会話の仕方、言葉遣い等々、小さなところで気を使っているつもりであった。しかし当然そんなちょこまかしたものは伝わらず、

「リーダーなのに私のことを見れていない」と指摘されたのだ。

 

その際かなり攻撃的な態度を取られて私は傷ついた。

というより、一旦相手の言葉を甘んじて受け入れて飲み下してから、やけどをしたことに気が付いたというか。

 

同時に、人を傷つけるのが怖いと言いながらとげのある言葉を投げてくる、そのやり方をどうしても理解できなかった。

その疑問をぶつけると「私はそれだけ不満だったのだ」という。そして「私と同じように反撃すればいいではないか」とも。

 

しかし私は、それだけはどうしてもしたくない。

攻撃に反撃すると争いになるだけだからだ。

 (まあもう既に争いに発展してたけどさ)

 

「セトモノ」という詩がある。谷川俊太郎だっけな?

瀬戸物と瀬戸物がぶつかれば割れる。

しかし、どちらかが柔らかければ割れない。

 

自分が丸くなって争いが起こらずに済むなら、怒りを硬いまま相手に投げつける方法は選ばない。

それが私の信条だ。

 

 

 

ただ、相手はこれを理解しない。

そして私も相手を理解できなかった。

 

相手に与えた分と同じものを返されるのを望むのはよくあることだ。

私もよく、相手のことを知りたいと思ったとき、先に自分から自己開示をする。

そうすると相手も自分に心を開いてくれたりする。

(もちろん相手が閉じたままのこともあるが、それは相手の性格次第なので何とも思わない。) 

 

しかし、与えるのが負の感情で、得たいのも負の感情だったらどうだろう。

人は皆、多かれ少なかれ復讐されるのを恐れるものだ。

その恐れを乗り越え、保身を解いて相手に負の感情をぶつけてみるのはえらいとも思う。だが、その一撃で相手を傷つけて怒りより悲しみを与えてしまったら。

何も得られない。

残るのは、

相手につけた傷と、得たいものが得られなかったことへの不満だけになる。

 

私はそれが怖い。

そして「相手を傷つけることが怖い」と明言する彼女も、怖がるはずだ。

でも彼女は恐れない。相手を「傷つけてもいい相手」だと認識してしまっているからだ。

なぜなら「私はさんざん不満をため込まされてきた被害者」だから。

 

そうとしか説明がつかない。

私にはこの矛盾を説明するロジックはこれしか思いつかなかった。

もちろんこれは、事実の一部でしかない。

 

ただし忘れてほしくないのは、私がたとえどんなに相手に不快感を与えていたとしても、私にとっては傷をつけられた構図だし、こちらとしてもこれを「被害」だと認識するということである。

相手はこれを知らなかったし、やはり私も、どうしても相手を理解できなかったのである。厳密には、理解した瞬間自分の信条が崩壊するため理解してはいけないのである。

 

 

結局。

 

 私たちは何も変わっていなかった。

 

 

 

 

歩み寄りなど、私たちの間には存在しなかった。あったのはただ、

互いに被害者面をして、自分への理解と自分のやり方に近づくことを相手に求めて無理やり啓蒙しようとするだけの、

エゴだ。

 

そしてお互いおそらく、歩み寄っているつもりになっていたのだろう。

そうでなかったことに、相手からの大きなリアクションがあって初めて気付いたのである。これが、一番罪深いと思う。

(私は相手がこれに気付いているのか疑っている。指摘してもリアクションがなく、自分の主張に移ってしまったためだ。そしてこちらは既に、確認する気力も失ってしまった……)

 

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人との間で抵触する部分が、

自分の”どうしても譲れない部分”だった時、

「歩み寄る」ことは不可能なのではないか。

 

人に話せば、「世の中、分かり合えない人もいる」という。それはそうなのかもしれない。

 

ただ、それを言い訳に努力を放棄するのは、

問題を片付けてしまうのは、

 

悔しくないか。

 

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価値観が自分と同じ人などいない。どこかで必ず違う。

しかしそれでも人と人が付き合っていけるのは、

お互いにその違いを認め、ゆるすからである。

表面的な部分で違うだけ、そして、お互いの関係性の前提が好意であったとき、

これは難しいことではない。

 

逆に、

相手との間に多少の苦手意識が既に存在していたり(深くかかわる前でも、不一致を感じ取ってよくない印象を抱くのは自然なことである)、

抵触する部分があまりに自分の価値観に占める割合の大きいものだった時、

そしてそれがコミュニケーション方法を左右するものだった時、

 

相手に理解されないことをゆるしながら付き合うことは

出来ないのだろうか。

関係性を薄め、互いの距離を離すしか術はないのだろうか。

 

 

この疑いが、私にとっては衝撃だった。

どこかで、努力すればどんな人とも上手く関わりあっていけると思っていた。

同時に

この疑いは、私にとっては辛かった。

挫折そのものになったからだ。

 

 

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幸か不幸か、もうすぐ彼女とは物理的に距離が大きく離れ、共に活動をすることもなくなる。

そして同時に

やみくもに相手に近づこうとして

どちらか、もしくは双方が傷つくリスクもなくなる。

 

 

 

 

 

私の挫折は、挫折として終わる。

 

なんとも感傷的な終わり方をしそうになったが、

久しぶりに人間関係でウンウン唸る出来事があったので

書いてみた。

とてもじゃないけど人に伝わる書き方はできなかったなーと。

 

これからだ!